夏休み中高生復興地ボランティア活動記(1)

 8月9日21時。バスは座間市を出発しました。


慣れない夜行バスでの直距離の移動、さらには、様々な学校から参加した生徒たち同士が仲間になれるのかどうか不安な気持ちを持ちながらの1日目だったと思います。

 

8月10日 朝6時過ぎ、遠野市の風の丘に到着、着替えを済ませて活動モードになりました。
 釜石の活動は、昨年度に引き続き「B1プロジェクト」という海岸清掃作業を担当しました。ちょうど全国的にも高温の時期に入っており我々スタッフは活動の体調管理に気を配りながら進行させましたが、生徒たちはグループ編成にも慣れて協力し合いながら和気あいあいと「きれいにしよう」を合言葉に作業に取り組みました。

12時20分作業を終了し、昼食、小休止の後、作業現場の後片付けを行ってバスに戻りました。今年は、作業途中での雨もなく最後まで充実した活動が出来たと思っております。

 

 活動の後のプログラムは、発災時釜石社協の幹部職員として陣頭指揮をおとりになられたY氏のお話により市内の被災現場をめぐる見学会を企画しました。お話の一つ一つは参加者の胸を揺さぶるものがありました。

釜石市鵜住居地区は「釜石の悲劇」、「釜石の奇跡」というマスコミは作り出したキャッチコピーが独り歩きしてしまった地区です。悲しい出来事はそれなりに常日頃の取り組みの在り方に課題があり、助かった事例は常日頃の訓練を淡々と取り組み+古老の話を素直に聞き入れて次の行動に移したことがすべての結果だったということが見えてきました。このような正確な情報が地元の方々の口から参加者に話が出来るまでには2年半の時間が必要だったのだと思います。

 

 「悲劇」の舞台となった「鵜住居防災センター」は関係者の意見調整が出来て取り壊しが決まったそうです。今年のこの場所での最後のお盆になるということで関係者の方々が準備をされていました。本来は、関係者以外は立ち入りが制限されている場所でしたが、Y氏のおかげで中に入れていただき「災害の被害というのはこのようなことになってしまう」のだということを知ることが出来ました。生徒たちは言葉もなく慰霊段に向かって手を合わせていました。

 

 また、「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石東中学、鵜住居小学校からの避難路をたどることもできました。すでに両校は取り壊されてがれきは盛り土の材料となるべく積み上げられいました。ここにはスポーツイベント会場として復興させようという計画があるようです。
この地区に被害が最少で収まったのには決して「奇跡」ではなく、津波地域に生活するものとして代々受け継つがれてきた行動が訓練の通りにできたということでした。そして、集合場所での古老の言葉を信じて、次の行動を「自分たちで考えて行動する」ことが出来たということであることを話してくださいました。鵜住居駅は夏草にすっぽりと覆われていました。傍らに咲いていたオレンジ色の百合の花が私たちに何かを訴えるよな感じられました。新しい、鵜住居小学校、東中学の仮校舎も見てきました。

 

 釜石の作業を終わり。駅前で休憩、見学をして、バスは今夜の食伯場所である気仙沼へ向かいました。作業で疲れたのかバスの中では静かな寝息が聞こえました。

 途中、陸前高田の奇跡の1本松の復刻版を見学もしてきました。被災直後から現地入りして活動をしてきた私たちZSVNとしては微妙な気持ちが残りますが相模原製の松のレプリカは空に向かってすっくと「何かを訴えるような」姿で立っていました。
バスは、私たちがボランティアが、発災後から通い続けた「上長部地区」の谷を通過して気仙に向かいます。あの日、津波で流されてしまった魚の冷蔵倉庫は立派に再興できていました。ちょっぴりうれしい気持ちになりました。その反面、5月から続いた魚の臭気にまみれた作業の姿がよみがえってきました。


 夕暮れが迫る中、津波によって陸に上がってしまった「共徳丸」前に到着短時間でしたが駐車して犠牲になられた方々へのお参りと見学をしました。この船も、解体することに決まり震災の傷跡が一つ姿を消すことになりますが、今回このボランティア活動へ参加したメンバーの記憶に中にしっかりと刻まれたと思います。

 

 バスは、今日の宿舎へ到着しました。長い、長い二日間だったと思います。部屋割りを済ませて、手際よくシャワーを済ませて全員そろって食事をしました。今日の活動でみんなのつながりが強くなったような気がしました。また明日も活動があります。しっかり睡眠をとって明日に備えましょう。お疲れ様でした。